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ここ美作の国にまつわるお酒の話や町の話題・蔵人のないしょ話・蔵からのメッセージなど、エッセイ風に皆様にお届けしていきます。
その四十三(2004年1月1日)
    
▲昭和7年に全国酒類品評会で金賞をとったときのもの。
当時は銘柄が「萬悦」(まんえつ)であった。
 
蔵元に嫁いで61年。そこには、時代とともにさまざまな活気に満ちた仕込みの風景が
ありました。そしてそれは酒づくりの伝統として今も脈々と受け継がれているのです。


今期も蔵人たちが顔を揃え、今仕込みに入っている。

御前酒蔵元は、今年創業二百年を迎えるので、二百回目の仕込みというわけである。但し私がそれを見てきたのは嫁いできて以来61年間のことであるけれども、本当に活気に満ちた日々であったし、又それは今尚続いている。

戦中は造石数も制限され、凡て統制の世であったが、この酒造りの心意気はきっと昔のままであろうと、そのころの私は往年を偲んだものである。

午前12時、大釜に火を入れるため石炭をシャベルですくう音を聞きながら寝床に入っていると、酒造り唄が幽かに聞こえる。そして夜明けの空に大釜から蒸米を取る湯気が濛々と白く立ちのぼり、それは神秘的な風景であった。続いて蒸米の具合を見るために「ひねり餅」を作るのも早朝の行事の一つで、それを焼いて食べるのが子供達の楽しみであった。

こうして仕込みは始まるのであるが、蔵人だけでなく、家の者たちも共にこの季節は緊張して一緒に酒を造っているのだという気がしていた。酒袋の修繕(昔は柿渋で褐色になった革のように固い酒袋は圧力による破れが多かった)が、毎日のようにドッサリと居間に運び込まれ、それを女達が炬燵を囲んで太い糸で刺し縫いをし、又放冷用の大きな布をつないだり、技術指導の先生の宿泊を引き受けたり、忙しかったものだ。


■辻 美津子
大正10年1月8日岡山市生まれ。 昭和17年五代当主辻弥兵衛と結婚、その後平成十二年まで約58年間(株)辻本店財務処理担当常務などを務めた。
▲蒸した米に麹菌を振り掛ける「種切り」と「床もみ」の作業 ▲まる二日かけて完成した麹の出来を確かめつつ、室と呼ばれる部屋から出す「出麹」の作業

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今も受け継がれる
酒づくりの儀式
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 仕込み中に「釜祭り」という行事がある。毎年旧暦十一月廿七日(今では会社の都合で一月五日に決めているが)当日は庭内に鎮座する祭神「木花咲耶媛」(このはなさくやひめ)をはじめ、蔵内の松尾大社、火の神、水の神、の前で神官に祝詞をあげて頂き、その後きれいに清められた蔵内、邸内をくまなく巡回するため、当主は白装束の山伏姿でしゃく杖(じょう)を打ち振り、一同そのうしろに従って祈りを捧げながら歩くのである。

 時には雪もチラツク冬の夜、処々にかかげられた火の間を歩くのはおのづから厳粛な気分になるものであった。それが終わると広間に集まり、出入りの職人衆も招いて酒宴を開くのである。暖房もない昔は、手焙り火鉢を二十個くらい入れ銘々膳に手作り料理をのせてのもてなしに女中さんたちは大忙しで、にぎやかなものであった(今は町内の料理屋を使用しているが)。

その日を最高潮として、注連縄を張り、白布を垂れた酒蔵は大吟醸の造りこみに入る。昔の蔵人の労働はほとんど半徹夜であるため、午睡の時間があり、それの終わるころは家人は戦中戦後の貧しい食材を工夫してお八つを作ったりしていたものだ。等々… 次々と昔が思い出される。

皆、「酒は生きもの」と思っていたから正月といえども全員蔵内で越年した。

▲お釜まつりは、蔵の年中行事のひとつ。当主を先頭に、社員一同、蔵の内と外を練り歩く ▲今期の蔵入り。「いい酒ができますように」と願う気持ちは昔も今も変わらない

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いつの時代も「よい酒を」
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  敗戦を境に国中が色々と変化した様に酒造界も移り変わりもあったが、暫くは、国内は酒の需要に追われて、酒でも焼酎でも造りさえすれば売れるというわが蔵でもなんだかザワザワとして数年が続き、私の知っている限り、杜氏も二人代替わりしたが、いまや広く名杜氏といわれている原田杜氏が入社したのは彼が弱冠26歳の昭和31年(1956)である。

 その頃、日本は高度成長期に入り、酒の需要は次々に増え、それにしたがって造石数も二倍近くなるまでになった。そして業界も次々と近代化していったと思う。

六尺といわれる木の桶は凡てホーロータンクになり、洗米機、放冷機、搾り機も「槽」といわれる木製のものから現在のヤブタ式に変わり、精米機にもコンピューターが使えるように科学的合理化が進んだが、日本酒が装置産業とならないのはなぜであろう。

 「酒はいきもの」という認識は相変わらずで、労働のローテーションは変わっても杜氏は正月も家に帰ることをせず、この最近二日ほど家で家族と過ごすようになったが、その間は蔵入りをしている孫が夜も見回りをかかさない。

清酒そして酒造りを愛するものをひきつけてやまぬものは、その蔵内に連綿と住み続けている何か判然とはしないが蔵付き酵母の住む独特の雰囲気と、代々当主が語り継いだ言葉「とにかく よい酒を造れ」が蔵内に満ちているからであろう。

 ともかく二百年前創業時の想いが今も脈々と流れて、老舗の暖簾を掲げた蔵内で、今日も仕込みの諸々の音がしている。

2004年1月1日


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